太平記 楠木正成 名言 11

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愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 © 2020 レキシル(Rekisiru) All rights reserved. 鎌倉時代の終わりから南北朝時代に活躍した楠木正成くすのきまさしげは、鎌倉幕府打倒に貢献した天才武将。, 今回は、歴戦の勇士であった正成が、戦いの中で彼自身が残した名言、また彼が取り上げた言葉が名言として残ったものをご紹介していきます。, 楠木正成の名言が長く伝えられるのは、彼の言葉が表面的なものではなく、行動に表れているからです。, 彼の知略と武勇がこれでもかと発揮された1331年の赤坂城の戦い、1333年の千早城の戦いとそれにまつわる名言です。, 後醍醐天皇の鎌倉幕府の倒幕計画に味方した楠木正成ですが、後醍醐天皇が笠置山の戦いで捕らえられた後も、護良親王もりよししんのうを擁して赤坂城で幕府軍を相手に籠城しました。, 幕府はすぐに決着がつく戦いだと思っていたのですが、正成軍は、敵を欺く釣塀つりべいを使って、わざと塀を倒すと上から大石や熱湯をかけるなどして塀に群がっていた幕府軍に大きなダメージを与えます。, (戦いの勝ち負けは、必ずしも兵の数の多い少ないで決まるのではなく、兵の心を一つにすることで決まるのである), まさに正成の言葉は、この戦いのように数は少なくても目的のために皆の心を一つにして戦うことの大切さを説いています。, その後、幕府軍は城には手を出さずに持久戦に持ち込みますが、急ごしらえの赤坂城には兵糧がなく、正成は城を放棄することを決断。, 城内に判別のつかない焼死体を発見した幕府軍は、それらが正成や一族のものだと判断して戦は終了しました。, これは、中国の『孫子』と呼ばれる兵法の本にある言葉を引用したものだと考えられます。, 戦いのない世が一番ですが、それが避けられないなら、武将にとって最も理想的な勝利とは、政治や交渉、知略などの戦闘以外の手段によって優位となることだと正成は考えていたのです。, 1332年の赤坂城の奪還作戦では、正成軍は、赤坂城に持ち込む兵糧の米俵に武器を仕込み、人夫姿となって城内へ侵入。, 彼らが武器を取り出して鬨ときの声を上げるのと同時に、城外からも押し寄せる軍勢に城内の人々は恐怖し降伏します。, 1333年、楠木正成は、赤坂城や金剛山中腹にある千早城でまたしても幕府の大軍と戦うことになりました。, 鎌倉幕府の軍の数は2.5万~8万(『太平記』によれば幕府軍は100万!)、正成軍は1000だったと言われており、絶体絶命の大ピンチ。, 夜のうちに甲冑を着せた藁人形を囮として用意し、朝になって敵兵が人形へと殺到したところで、大量の石を落とすなどのゲリラ戦法で鎌倉幕府軍を苦しめたのです。, (大将とは、大きな知恵や小さな知恵を持たなくてはならないものだ。知恵は生まれつきのものだというが、それを磨き続けなければ正しい知恵が出てこない。持っている知恵を自慢するだけで磨かなければ、大将は代々持っている国を失い、家もなくなってしまう), 正成は天皇に忠義を尽くし、足利尊氏軍を一度は破ったものの、九州で体制を整えた尊氏と再び湊川で戦うことになりました。, 自軍の不利を知っていた正成は尊氏軍との和睦を主張しますが、後醍醐天皇に認められず、尊氏との戦いを強いられました。, (罪深い救われない考えではあるが自分もそう思う。その願いを達成するために死のう。さらばだ), 「七生報国」を語った人物は他にもいたと思われますが、やがてこれは正成の言葉として一人歩きし始めます。, また、第二次世界大戦時には「七生報国」が「皇国に報いる」という意味を込めた戦争を肯定するスローガンとして使われることになったのでした。, 楠木正成の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); ©Copyright2020 歴史上の人物.com.All Rights Reserved. 必要なものは、全てあなたの中にあります。, 新たに必要なものがあれば、 | ブログを報告する, 大河ドラマ「太平記」11話「楠木立つ」:最後の最後まで挙兵を逡巡する楠木正成の姿に感情移入してしまった, 大河ドラマ「太平記」15話「高氏と正成」:戦場から戻った彼らを待ち受けていたのは、かくも息苦しい世界…, 大河ドラマ「太平記」14話「秋霧」:かつての想い人との7年ぶりの再会に何を思うか?, 大河ドラマ「太平記」10話「帝の挙兵」:ここまでドラマを引っ張ったキャラの退場。力を増す長崎円喜のラ…, 大河ドラマ「太平記」8話「妖霊星」:後味の悪いエピソード。せめてもの救いは登子か?, 「Alesia: Last Stand of the Gauls」(S&T誌)を対戦する(1), 大河ドラマ「太平記」29話「大塔宮逮捕」:後醍醐帝はなぜ実子である護良親王を切ったのか?, 大河ドラマ「太平記」28話「開戦前夜」:宮廷政治の洗礼、後醍醐帝への直言対決。さらには護良親王一派の暴走・・, 大河ドラマ「太平記」27話「公家か武家か」:なぜ足利尊氏は後醍醐帝の新政を見限ることになったのか・・これがこのドラマが次に描いていくテーマ, 大河ドラマ「太平記」26話「恩賞の波紋」:新政建立の恩賞の沙汰が下り、各人の悲喜こもごもが描かれる, 大河ドラマ「太平記」25話「足利尊氏」:高氏と義貞、実際に会ってみるとわだかまりは解けたように思えたが・・, 大河ドラマ「太平記」24話「新政」:腐臭を放つ人々が新政に集い始め、”美しい世”は早くも腐り始める・・, 大河ドラマ「太平記」23話「凱旋」:共通の敵がいなくなった途端に新たな波乱の兆しを見せる・・, 大河ドラマ「太平記」22話「鎌倉炎上」:主人公の登場はラスト3分のみ、残りは全て鎌倉攻防と北条氏の滅亡が描かれるという異色の回. また第2代当主正重が千子村正の門下に入って刀工になるなど細々と活動を行っていた[54]。 才能や能力をどこまでも追求して、 鎌倉時代の終わりから南北朝時代に活躍した楠木正成くすのきまさしげは、鎌倉幕府打倒に貢献した天才武将。 今回は、歴戦の勇士であった正成が、戦いの中で彼自身が残した名言、また彼が取り上げた言葉が名言として残ったものをご紹介していきます。 倒幕の謀議が発覚し都を追われた後醍醐天皇は笠置山で失意の日々をおくっていた. たかが知れていますから、 思考などの顕在領域の能力と、 「罪深き悪念なれどもわれもかように思うなり。いざさらば同じく生を変えてこの本懐を達成せん」, 歴史ライター、商業コピーライター 思考や顕在能力の開発に偏り過ぎているのと同じように。, 思い、夢の実現も、 疎かにしないでください。, 思考から外に向けて発せられるエネルギーは、 関連記事 >>>> 「楠木正成とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」, 関連記事 >>>> 「【鎌倉時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」. 必ず実現していくものです。, それを、ないものを追い求めて無理をして、 木俣氏(木俣守勝など。維新後は木俣男爵家)は伊勢楠木氏の傍系[55](ただし、守勝の後を養子が継いだ為、血筋では繋がっていない)。またアラビア石油創業者山下太郎[56]や、伊勢高楠家(仏教学者高楠順次郎が婿入りした家)が第7代当主正具の後裔を称する[57]。, 明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。初代会長は、伊勢楠木氏傍系子孫とされるアラビア石油創業者の山下太郎である[56]。, 比較をわかりやすくするため、より歴史的事実に近いと思われる記述と、『太平記』によって世間に流布している記述を並列して示す。『太平記』が出典である場合、「出典」欄には巻数から記す。『太平記』章名は原則として天正本、そのため流布本と違う場合がある。『太平記』は月日の錯誤が多く、特に元弘2年(1332年)の正成再挙兵を8ヶ月も前倒ししている。ただし、元弘の乱の始期と終期(鎌倉幕府滅亡)、正成の命日は他の文献と一致する。, 『菊池武朝申状』(弘和4年(1384年)7月日)によれば、武朝の曽祖父の菊池武時が元弘の乱で戦死した後、その論功行賞の場で、正成は自らの功績を誇らず、他人である武時の功を強く推薦したという[187]。曰く、元弘の乱では忠烈の者も労功の輩も多いが、みな生き長らえた者である[187]。しかし、武時入道ひとりは勅諚によって落命した者である[187]。忠厚第一とするのは当然ではないか、と論じた[187]。そのため、正成の主張を後醍醐天皇は聴き入れたという[187]。, 上の「忠厚」という語については、平田俊春「楠公の戦死に関する学説について」(1940年)は「忠義」の意に解しているが、今井正之助「解説 正成討死をめぐる諸説と正成の出自」(2007年)は、『太平記』等の当時の諸書での用例を考えるなら、ここでいう「忠厚」とは「忠功」[注釈 14]つまり(戦での)「功績」のことであろうと指摘している[187]。, 南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でも正成に対して同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためとされる。, 今日でいうゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていた。その他、応仁の乱前後から正成著と称する偽書の軍学書が多く作られ、伊藤博文も偽書の一つ『雑記』の古本を秘蔵し、のち末松謙澄子爵が入手して称賛しており、室町時代から明治初期に至るまで影響は大きかった[189]。, 楠木正成は、既に古典『太平記』巻16「楠木正成兄弟以下湊川にて自害の事」において、三徳兼備の和朝最大の武将として評価されている。南北朝分裂以降、仁が無い者は北朝に寝返り、勇が無い者は死を恐れてかえって死罪に合い、智が無い者は時流の変遷を理解できず道理のない振る舞いばかりしていたが、そのような中、ただ一人楠木正成のみが智・仁・勇の三徳(『中庸』で「天下の達徳」とされる儒学最高の理想)を兼ね備え、古今これほど偉大な死に様をした者はいない、と同書は評価している。, 正保2年(1645年)に活字本が刊行された『太平記評判秘伝理尽鈔』は江戸時代に軍学書のベストセラーとして広く読まれたが、『太平記』の正成賛美を受け継ぐ傾向が強く、正成が「坂東一の弓取り」宇都宮公綱を計略で撤退させるだけで直接対決しなかったことについても、出典の怪しい逸話を引いて、優れた将同士が直接戦えば双方に被害が甚大だったであろうから戦を仕掛けなかったのだ、と正成が弁解する話を伝えるなどして弁護している[4]。また、「正成は多聞天王の化生(軍神の化身)ではなく、智・仁・勇を極めただけの人間だ」という論に対し、「もともと智が無かった者でも、その後に学問を好めば智者と呼ばれるように、(三徳を極めた人間こそが)多聞天にして聖人なのだ。正成には敵を退けて朝家を守護したという事実があるのだから、それは多聞天が帝を守護したのと違いがあろうか」という反駁で総括している[4]。, 江戸初期の儒学者は中国の人物を高く評価する傾向にあり、山崎闇斎『大和小学』(明暦3年(1657年))は、前漢の張良、蜀漢の諸葛孔明、唐の郭子儀を三徳に近い中国史の名将とし、日本の楠木正成は孔明の次ぐらいであって、これを三徳兼備などと称するのは『中庸』を読んだことがないのだろう、と評している[4]。とはいえ、日本最高の名将が楠木正成であるという前提は、『太平記』から引き続いている[4]。, こうした江戸の儒家の影響を受けて、寛文5年(1668年)に江島為信が著した軍学書『古今軍理問答』は、『太平記』の流れを組む正成神聖視から離れ、正成を「智謀」のある大戦術家・大戦略家とはしながらも、「三徳兼備」という聖人評価については「孔子ですら智仁勇を自称せず、まして日本は夷国であって人の気質も偏屈で、賢人すらいない。楠木正成は日本国内においては無双の英雄の士ではあるが、智仁勇というほどではない」としている[4]。また、『太平記評判秘伝理尽鈔』の出所不明の逸話を正し、その戦術・戦略についても、挙兵を急ぎすぎて赤坂城の用水設計に難があった点など、非がある部分については非を責めている[4]。ただし、総合評価としては、正成を日本第一の武将とする結論はやはり変わらない[4]。敵を見てその戦術を転化する変幻自在の謀計や、この時代にあって兵糧・用水など兵站の確保を重要視したこと、千早城という天険の要害を見出した築城技術などを評価している[4]。『古今軍理問答』は、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『甲陽軍鑑』なども論じているが、それらの主要人物である源義朝・源義経・武田信玄・上杉謙信などを差し置き、正成を「日本開闢以来の名将」の異名で呼んでいる[4]。, 寛文12年(1672年)、陽明学者熊沢蕃山は、甲州流軍学、越後流軍学、信州流軍学のうちどの軍法が優れてるのか、との問に、個人の将として優れているのは越後の景虎(ここでは上杉謙信の初名)、技術で優れているのは甲州・信州としつつも、戦国時代の軍法は小競り合いの類である、小事を知るには良いが、義経・正成・義貞(の軍法)の後に本当の合戦というのは存在しない、と答えている(『古事類苑』「兵事部」巻1に引く『集義和書』巻11)[190]。, 日夏繁高『同志茶話』は、源義経を「今古無之名将」、楠木正成を「古今無双の良将」と、日本史上の名将双璧とするが、正成が義経の兵法を研究したとする『太平記評判秘伝理尽鈔』の説については疑っている(『古事類苑』「兵事部」巻1に引く『同志茶話』巻6)[191]。また、正成の千早城の籠城戦や藁人形を使った謀計などを評価しつつも、二人の名将は神速奇謀を主とした将であり、手本としてたやすく学べるものではない、と、楠木正成の戦法を取り入れたと自称する楠木流軍学などを批判している[191]。, 『国史大辞典』(1997年)でも、1336年の豊島河原合戦で勝利に沸き尊氏は再起不能であると楽観論を述べる後醍醐天皇軍に対し、尊氏はすぐに再挙して東上するであろうと予見して苦言を呈したことについて、「軍略家としての非凡な資質をうかがうことができる」と評されている[1]。, 江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、正成は忠臣として見直された。会沢正志斎や久留米藩の祀官真木保臣は楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩主徳川慶勝が「楠公社」の創建を朝廷に建言した[192]。長州藩はじめ楠公祭・招魂祭は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた[192]。, 明治になり、南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のために従容と逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。, 佩刀であったと伝承される小竜景光(東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。, 正成の忠臣としての一面を過剰に強調することの問題点は、それがしばしば建武政権と南朝の政治への低評価と結びつくことである[193]。, 戦前まで存在した南朝正統史観は、後醍醐天皇・建武政権・南朝を無条件に讃えた史観であると誤解されることがあるが、実際は後醍醐が賛美されたのは大義名分論の側面のみであり、政治的には無能で不徳な君主として扱われていた[194]。こうした暗君像は、軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)などに端を発する[195]。そして、後醍醐は「暗君」であるにも関わらず、三種の神器を持つ正統な君主であるがため、愚直に仕えざるを得なかった「忠臣」の悲哀が、判官贔屓の形で共感を呼んだのである[194]。, このような「後醍醐=暗君、忠臣=正義」の構図[194]は、戦後も前半部分は依然として続き[196]、後醍醐天皇・建武政権の特異性が誇張されたことで、鎌倉時代と室町時代の政治にどのような繋がりがあるのかの解明を困難にさせた[197]。しかし、2000年前後からの実証的研究では、建武政権の政策・法制度は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、後醍醐天皇の旧来の暗君像は徐々に改められる方向にある[198][199]。, 戦後は、価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。, 鎌倉時代末期〜南北朝時代における「悪党」とは「わるもの」という意味ではなく、強大な経済力と武力を背景に、旧体制である荘園領主・幕府に反抗した新興勢力のことである(よって、山僧や神人など「邪悪」ではない者も「悪党」には含まれる)[200]。鎌倉時代末期〜南北朝時代は社会の下部構造である民衆が初めて歴史の表舞台に台頭した時期であり、その下部構造から生じた悪党はこの世代の社会を牽引した、時代の主役であった[201]。公家や武家といった旧時代の支配者たちは「血」を重視し血縁組織を作り上げたが[201]、楠木正成ら交通の要衝路に住む悪党は「地」という革命的な概念を持ち込んで地縁組織を支配した[200]。正成は「摂津〜河内〜和泉〜大和〜伊賀〜伊勢」という通商ラインを抑えたことで、六波羅探題と鎌倉幕府の連携を分断することに成功し[201]、当初数百倍の戦力差があった元弘の乱に戦略的勝利を収めた。権威を盲信するのではなく、知恵と新しい発想をもって時代を切り開く、いわば時代の異端児・革命児としての楠木正成像である。, ただし、「悪党」を「社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団」と誤解で一般的語彙に解釈されて問題となることもあり、NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社がNHKに抗議する事件が起きている[202]。, 前節までの評価は、楠木正成という人間を一つの型に押し込めるものであった[203][204]。しかし、その後の研究の進展により、正成は本質的に多才・多面的な人間であったことが明らかになってきている[205][203][204]。, 生駒孝臣によれば、正成のような畿内の武士は、複数の側面を持つことが普通であったという[203]。つまり、正成は、交通・流通路の支配者として財を稼いだ大商人であり、朝廷・後醍醐天皇に仕えた廷臣でもあり、幕府の御家人でもあり、かつ幕府から訴追された悪党(反抗者)でもある[203][204]。どれか一つが正しい正成像なのではなく、むしろこれら全ての顔を持っているという点が正成の実像なのであるという[203][204]。, また、正成は、建武政権下で、名和長年と共に、最高政務機関である記録所の寄人(職員)に大抜擢された[205]。後醍醐天皇の人事政策は、破天荒と言う俗説に反し実際は穏健なものが多いが、正成の記録所への登用は例外的な抜擢人事である[206]。森幸夫によれば、一般的には武将としての印象が強い正成だが、官僚的能力に優れた中原氏や小田時知、伊賀兼光[注釈 15]といった他の寄人の顔触れを見る限り、正成も実務官僚として相応の手腕を有していたのではないか、という[205]。, 軍記物語『太平記』流布本巻3「主上御夢の事附楠の事」では、楠木正成と後醍醐天皇の出会いは以下のように描かれる[207]。しかし、歴史的事実としては、『天竜寺文書』により、遅くとも元弘の乱発生以前である元徳3年(1331年)2月には、正成が後醍醐天皇方に付いていたことが明らかである[208]。, 元弘の乱が発生し、天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった[207]。そのため、後醍醐天皇は皇居の警備もままならないと不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た[207]。その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた[207]。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。, 夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、 河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした[207]。万里小路藤房が勅使として笠置山から河内に向かい、正成の館に着いてその事情を説明した[207]。すると、正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した[207]。そして、正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内を出て、笠置山に参内した[207]。, 正成は後醍醐天皇から勅使派遣より時を置かずに参内したことを褒められ、そのうえで正成がどのような計画を持ち、勝負を一気に決めて天下を太平にするのかを問われた[207]。正成はこの問いに対し、「幕府の大逆は天の責めを招き、衰乱の機会に乗られて天誅が下されます。その好機なら必ず滅ぼすことができます。天下草創には武略と智謀の2つがあります。勢いに任せて合戦を行えば、たとえ60余州の軍勢をもってしても武蔵・相摸の領国に勝利を得ることはできないでしょう。もし何らかの策を用いて戦えば、幕府は守勢に回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう。合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。(たとえ戦いで敗れたとしても)正成がたった一人生存していれば、天皇の聖運が必ず開けると御思い下さい」と述べた[207]。そして、正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵した[209]。, 『太平記』流布本巻16「正成兵庫に下向の事」が描く物語によれば、建武の乱で多々良浜の戦いに勝利した足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫に退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じた[48]。正成は帝に対し、「尊氏の軍勢は大軍であり、疲弊した味方の小勢でまともに正面からぶつかれば、決定的な負け戦になるでしょう。ここは新田殿を京に呼び戻し、帝は以前のように比叡山に臨幸して下さい。私が河内に戻って河尻(淀川の河口)を抑え、京に入った足利軍を新田軍とともに前後から兵糧攻めにすれば、敵兵の数は減ることでしょうし、我々の軍勢には味方が日々馳せ参じるでしょう。その時を狙い、新田殿が比叡山から、私が搦手より攻め上れば、朝敵を一戦で掃滅すること可能かと思えます。新田殿もきっとこの作戦に同意するでしょう」と進言した[48][45]。この策は正成にとっては、比叡山に朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つという、現実的かつ必勝の策でもあった。, この正成の進言に対して、諸卿らは「確かに戦に関しては武家に任したほうが良い」と、納得しつつあった[48]。だが、坊門清忠が「帝が都を捨てて一年に二度も臨幸するのは帝位そのものを軽んずる」とし、「味方の軍勢は少数ながらも、毎回大敵を滅ぼしてきた。それは武略が優れていた訳でもなく、聖運の天に通じたから」だと述べ、正成は即刻義貞のいる兵庫に向かうべきと主張した[48][210]。, その結果、後醍醐天皇は正成の意見ではなく、坊門清忠の意見を尊重した[48]。正成は今更反論しても仕方がないと考え、朝議の結果を受け入れた[48]。, 以上は「流布本」の描く筋書きであるが、この物語は写本の系統によって異同がある[211][212]。特に、古態本(『太平記』の原型に近いとされる写本)の一つである「西源院本」では、坊門清忠は登場しない[211]。また、「神宮徴古館本」では、後醍醐への憤りから「智謀叡慮で勝つのを望まず、無二の戦士をあえて大軍にぶつけるなどと仰るなら、私は義を重んじる忠臣勇士なので、お望み通り死んでみせましょう」と皮肉を述べるなど、忠臣勇士とは言いがたい描写がされている[212]。, 軍記物語『太平記』巻16「兵庫海陸寄手事」では、湊川の戦いで、正成は他家の軍勢を入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていた[213]。正成も義貞も足利方の大軍に対して少しもひるむことはなかったという[213]。, 続く流布本巻16「正成兄弟討死の事」では、連合軍は多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢は引き離されてしまった[214]。正成は正季に「敵に前後を遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ、前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした[214]。, 正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した[214]。菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正季は奮戦し、良き敵と見れば戦ってその首を刎ね、良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った[214]。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させた[214]。直義自身は薬師寺十郎次郎の奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた[214]。, だが、尊氏は直義が退却するのを見て、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた[214]。そのため、吉良氏、高氏、上杉氏、石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった[214]。, 6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた[214]。疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込んだ[214]。, 正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷を負っていた[214]。正成は正季と共に自害して果て、橋本正員、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら一族16人、家人50余人もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ[214]。, 軍記物語『太平記』流布本巻16「正成兄弟討死の事」によれば、湊川の戦いでの自害の直前、正成は弟の正季に、次はどのように生まれ変わりたいか、と尋ねた[214]。正季はからからと打ち笑って、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」(「(極楽などに行くよりも)7度人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」)と述べた[214]。正成は嬉しそうな表情をして、「罪業深き悪念なれども我もかやうに思ふなり」(「なんとも罪業の深い邪悪な思いだが、私もそう思う」)と同意し、「いざゝらば同じく生を替へて、此本懐を達せん」(「さらばだ。私も同じく生まれ変わり、滅賊の本懐を達そう」)と兄弟で差し違えた、と物語られる[214]。, こうして七生滅賊という仏教的に罪深い思想に囚われた正成は、流布本巻23「大森彦七が事」で怨霊として再登場して室町幕府を呪い、最後は仏僧が読経する『大般若経』の功徳によって調伏されることになる[215]。, しかし、歴史的人物としての正成は、 『法華経』の写経(『今田文書』(湊川神社宝物))[原文 1]や、その裏書からわかるように、仏教への帰依が篤く、また深い知識を持つ人物だった[216]。したがって、『太平記』に描かれる「七生滅賊」の物語は、本来の正成の人となりとは反している[要出典]。, 上横手雅敬の「楠木正成(二)――天下、君を背きたてまつる」(『太平記の世界』(日本放送出版協会、1987年)所収)や、中村格の「天皇制教育と正成像――『幼学網要』を中心に」(『日本文学』39-1(1990年)所収)および今井正之助 などの研究では、本来、『太平記』の「七生滅賊」(あるいは「七生滅敵」)は中世的な怨念観を表現するための呪いの言葉であり、後段の大森彦七伝説と組で考えるべき物語であったとされ[217]、数百年後、近代に入り、国家への忠誠心を示す「七生報国」という言葉に置き換わったとみられている[217]。しかしながら、大正時代に至っても同5年(1916年)に、大正天皇は『楠木正成』と題した七言絶句の御製にて「七生報国」ではなく「死に臨んで七生滅賊を期す 誠忠大節斯の人に属す」と表現し、その徳を讃えている[218]。, 「七生報国」の語の用例は、遅くとも『萬朝報』明治37年(1904年)4月3日に、海軍軍人の広瀬武夫の辞世の句として「七生報国 一死心堅 再期成功 含笑上船」という漢詩が載せられたことまで遡ることができる[219]。, 軍記物語『太平記』の正成は、儒教的には三徳兼備の聖人として描かれるが、七生滅賊の節で述べたように、仏教的には「七生滅賊」の罪業を願った悪人として描かれる。そして、流布本巻23「大森彦七が事」では怨霊として登場する[215]。, 伊予国(愛媛県)の大森盛長(通称を彦七)という人物は、『太平記』の劇中では、室町幕府の有力武将細川定禅の部下として、湊川の戦いで楠木正成と戦い、腹を切らせた猛将であると設定されている[215]。また、大森氏は猿楽(後の能楽)を嗜む一族でもあったという[215]。, 興国3年/暦応5年(1342年)春より少し前のある夜、盛長が猿楽の楽屋に行く途中、山隙の細道に数え17歳から18歳程度(満15歳から17歳程度)の美女が佇んでいた[215]。か弱い姿の美女に心惹かれた盛長は、猿楽の桟敷席までお連れしましょうと申し出て、背中に背負って歩き始めた[215]。すると、たちまち女の口は裂け、角が生えて、怪物となり、盛長を空中に連れ去ろうとしたが、盛長が必死に抵抗し部下も駆けつけたので、怪物は消滅した[215]。猿楽は延期となった[215]。, 再開された猿楽の当日、再び化け物が観客の前に現れ、楠木正成を名乗り、朝敵滅賊の野望を果たすために、修羅の眷属となり、「貪」「瞋」「癡」の三毒の魔剣を探し求めていると明かす[215]。このうち、「貪」の刀は日吉大宮のもとにあったが、怨霊正成は日吉の神(大己貴神)に仏法を教える引き換えに手に入れた[215]。「瞋」の刀は足利尊氏が所持していたが、怨霊正成は尊氏の寵童(愛人の少年)に変装して奪った[215]。残る「癡」の刀は、もと悪七兵衛景清の佩刀であったが、壇の浦の戦いで海に落ちたのを、イルカが飲み込んで讃岐国(香川県)の宇多津沖まで運びそこで死んだが、100年余りのちに漁師の網に引っかかって地上に戻り、いま盛長が持つ刀がそれであるのだという[215]。この三毒の魔剣が揃った時、尊氏の世は終わると言い、盛長から「癡」を奪おうとする[215]。, この後、たびたび盛長と怨霊正成の対決が行われ、ついには、後醍醐天皇・護良親王・新田義貞・平忠正・源義経・平教経の怨霊も正成に加わって大きな戦いとなる[215]。武力に頼っても陰陽師に頼っても正成の怨霊を打ち倒すことはできなかったが、盛長の縁者である禅僧に調伏を頼んだところ、『大般若経』の読経が行われ、その功徳によってついに正成の怨霊を鎮めることができた[215]。まことに仏法の鎮護国家の力は素晴らしい、と『太平記』作者(円観ら)は称える[215]。, 興国3年/暦応5年(1342年)春、盛長は以上の次第を足利直義(尊氏の弟で当時の事実上の最高権力者)に伝え、さらに天下の霊剣として、「癡」の刀を献上した[215]。この話に感じ入った直義は新しい拵えを作らせ、「癡」を自らの蔵刀とした、と描かれる[215]。, 郡司正勝『かぶきの発想』(1959年)の推測によれば、上記の物語は、もともと怨霊鎮撫のために書かれた猿楽の台本だったのではないかという[220]。また、「流布本」では正成を調伏するのは禅宗の僧とされるが、砂川博『軍記物語の研究』(1990年)によれば、本来は西大寺系の律宗の僧という設定ではないかという[221]。樋口州男『日本中世の伝承世界』(2005年)の主張によれば、上記の話はもともと伊予で大森氏によって興行されていた物語であり、この地方での南朝敗退を説明するために、『太平記』作者が取り込んだのではないかという[222]。新井孝重は、大森氏が正成討伐に関わったことは歴史的事実であろうと考え、正成の勢力基盤であった民間武装民に流布していた天下転覆の怨霊伝説を、敵方である大森氏が怨霊を恐れ、怨霊鎮魂譚に組み替えたのではないかと推測している[223]。, 明治・大正時代の織田完之『楠公夫人伝』による推説では、正成の妻を南江久子(みなみえ ひさこ)としているが、他に典拠がない[224]。「観心寺過去帳」にその論拠があるという俗説も唱えられたことがあるが、宮内庁書陵部写本の「観心寺過去帳」に楠木氏関係の記事はない[225]。今井正之助によれば、太平記評判書(偽書的な注釈書)の一つ『無極鈔』に正成の舅として登場する、南江正忠(なんごう まさただ)という架空上の人物が久子伝説の淵源ではないかという[225]。, 細川潤次郎「楠氏夫人ノ異聞ノ続」(『東京茗渓会雑誌』126号、1893年)は、「柏原系図」により、万里小路藤房妹の万里小路滋子としたが、同系図は星野恒「楠公夫人ノ異聞問答」(『史学雑誌』5:2、1894年)により偽書と結論付けられている[225]。, 現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)という地名が隣接して存在している。, 『増鏡』『太平記』も27日説を取るが、『南山錦雲抄』『東寺年代記』は26日、『笠置寺縁起』は29日とする, 兵衛尉は、少尉が従七位上相当で、大尉が正七位下相当、左衛門少尉は正七位上相当。一階か二階の昇進となる。反幕勢力内での昇進のため、幕府側には伝わらなかった。昇進を許可したのが後醍醐天皇か大塔宮かは不明。, 遅くとも建武2年(1335年)8月12日以降、京の決断書の牒文から正成の署名が消える, 「七生」は七度生まれ変わって朝敵を滅ぼすの意味。後代にはこれに「報国」の意味が加わり「七生報国」と呼ばれた。, 『増鏡』「笠置殿に大和、河内、伊賀、伊勢などより兵ども参り集ふ中に、事の初より頼みおほされたりし楠木兵衛正成と云ふ者あり、心たけくすくよかなるものにて、河内国におのが館の辺りを厳めしくしたゝめて、此のおはします所、若し危うからん折は、行幸をもなし聞えんなど用意しけり」, 『増鏡』「中務の御子大塔の宮などは、予てより、こゝを出でさせ給ひて、楠が館におはしましけり」, 『光厳院宸記』元弘元年10月18日裏書条「御事書ヲ以テ仰云、天下未静謐、楠木城合戦落居之程、難給御返事暫可在京旨被之, 『光厳院宸記』正慶元年6月29日条「是自熊野山、帯大塔宮令旨竹原八郎入道為大将軍襲来, 『花園天皇宸記』正慶元年11月15日条「楠木事猶興盛候歟。自昨日門々番衆等著鎧直垂祇候候之間、定子細候歟之由、推量候。只冥助之外、無所憑。関東武士も上洛遅々之間、返々非無怖候。熾盛光法、尤忩々可被始行候歟。以俊禅僧正被申入了。仍承之。此時分、懇祈外、不可有他候乎。風気此両三日得減候也。事々期面候。謹言。」, 『楠木合戦注文』十二月日「一 為楠木被取籠湯浅党交名 安田二郎兵衛尉重顕 阿矢河孫六入道定仏 藤並彦五郎入道 石垣左近将監宗有 生地蔵人師澄 宮原孫三郎 湯浅彦次郎時弌 糸賀野孫五郎」, 甲斐身延山所蔵『金剛集裏書』「九日より京中以外騒動候。阿くた川に朝敵充満し、山崎迄せめ入候間、宇つ宮赤松入道賜打手、早速進返候了。仍仁定寺に構城廓、引籠候を、宇都宮ついで責取、即ち昨日打落頸其数令持参候。是大塔殿御所為と申候也」(「昨日」は12月15日), 『楠木合戦注文』「大手本城平野将監入道既三十余人参降畢。此内八人者逐電、或生捕、或及自害。彼所又以被落之由、閏二月一日風聞。楠木舎弟同比城中在之是非左右未聞」, 『忽那開発記』「建武五戊寅三月小早河民部大夫入道相順・同左近将監景平以下輩起謀反、安芸国沼田庄内、楯籠妻高山之間、為誅伐同七日御発行直附到着抽軍忠後三月十一日楠多聞兵衛殿賜御判。」(閏3月(後三月)の無い建武5年の閏3月に、建武3年に死んだ正成が判を捺しているという奇妙な記事だが、藤田精一は『忽那開発記』に日付の書き間違いが多いことを指摘し、これも元弘3年の後二月(閏二月)の間違いだろうとしている。そして、正成が千早城にいながら他の地域と連絡を取れる手段を持っていたのではないか、と推測している), 『博多日記』三月「二十二日自鎮西関東ニ上ル早馬、雑色ノ五郎三郎下着、金剛山ハ未タ不破、赤松入道可打入京之由、披露」, 備後『因島文書』「度々合戦捨身命、軍忠之刻、去四月三日、同八日、同廿七日等合戦之時、子息已下郎従、討死之条尤以不便次第、所有御感也。早可恩賞者。大塔二品親王令旨如此、悉之以状 元弘三年五月一日 左中将(花押)。備後国因島大主治部法橋幸賀館」(「中」将ではなく「少」将か?), 『紀伊続風土記附録』「爰其身者罷向金剛山城之折節、今年元弘三年五月二日安原卿大楠丸住宅に大塔宮祇候人保田次郎兵衛尉宗顕、生地蔵人師澄以下寄来、令放火之時、彼御下文等悉焼失候畢」(文中に「大楠丸」とあるのは正成ではなく襲撃を受けた栗栖実行の長子の名前), 『真乗院文書』「右助康去年十一月廿八日馳参京都属御手自宇治令参東坂本 同十六日罷向西坂本」(和田助康の軍忠状、御手とは正成のこと), 『忽那重清軍忠状』「同晦日馳向搦手到散々合戦之上、重為四条河原相向朝敵人高橋党、到散々合戦責落畢、次依大将軍仰火口河原在家懸火、次馳向内野責附丹州道追山」(大将軍は, 『和田助康軍忠状』「晦日鴨河原、内野合戦」(和田助康は正成配下だから、地理的に考えると正成が実世と合流して搦手で戦っていたことかがわかる), 河内国天野山金剛寺蔵『釈論』第九愚章、禅恵の記入「同三年正月十日帝落給入御山門、同十六日、日田殿折下京中散々合戦、同廿六日、廿七日、晦日, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945788, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897724, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593, https://books.google.com/books?id=uNCICrX8iU4C, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=楠木正成&oldid=80385495, 森正人「1930年代に発見される楠木的なるもの」人文論叢(三重大学)第26号 2009年.

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