覚醒剤 陰性 とは 9

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MDMAの輸入、輸出、製造は1年以上10年以下の懲役。譲受け、譲渡し、所持は7年以下の懲役。施用(しよう、経口摂取など、身体に用いること)は7年以下の懲役となる。 2011年の『現代精神医学事典』では、覚醒剤の英語をメタンフェタミン、アンフェタミンとし、覚醒剤取締法にて指定されている薬物の総称だとしている[7]。, なお、世界保健機関の『疾病及び関連保健問題の国際統計分類』第10版(ICD-10)では、分類のstimulantに精神刺激薬の語を用い、アメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計マニュアル』第5版DSM-5においては、上位分類に精神刺激薬関連障害群(Stimulant—Related Disorders)である。, 覚醒剤研究会による覚醒剤の定義は、広義にはカフェインやコカインも含む脳内を刺激する中枢神経刺激薬であり、狭義には覚せい剤取締法の規制対象のアンフェタミンやメタンフェタミンなどである[12]。しかし、アンフェタミンは日本ではあまり使用されていないため、日本における覚醒剤の歴史解説では便宜的に狭義の覚醒剤をメタンフェタミンに限定している[12]。ドイツ語の覚醒アミン (Weckamine) に由来する[12]。英語の Stimulant では、もっと広義であり興奮剤なども含むとしている[12]。, 覚醒剤という名称は、元々は「除倦覚醒剤」などの名称で販売されていたものが略されたものである。この「除倦覚醒剤」という言葉は戦前戦中に、メタンフェタミン製剤であるヒロポンなどの医薬品の雑誌広告などに見受けられる。健康面への問題が認識され社会問題化し規制が敷かれる以前は、取締法において指定されている成分を含んだ薬品は、疲労倦怠の状態から回復させ眠気を覚ますための薬品として販売されていた。, 闇市場で流通する覚醒剤では、アンフェタミン、メタンフェタミン、また粗悪なものではカフェインなどだけのものがある[13]。, 覚醒剤の俗称は、日本ではシャブ[12]、スピード、スピードの頭文字であるS(エス)、アイス、白い粉などがある。比較的大きい単一の結晶状のものはガンコロと呼ばれ、乱用者や密売人に特に好まれる。シャブの由来は、「アンプルの水溶液を振るとシャブシャブという音がしたから」という説や、英語で「削る、薄くそぐ」を意味する shave を由来とする説、「骨までシャブる」を由来とする説や、「静脈内に投与すると冷感を覚え、寒い、しゃぶい、となることから」という説もある。「人生をしゃぶられてしまうからである」と発言した裁判官もいる[14]。, 覚醒剤を小分けにするビニール製の小袋は「パケ(英語: package)」と呼ばれる。静脈注射で摂取する方法は「突き」と呼ばれ、使用される注射器は「ポンプ」「キー」などと呼ばれる。第二次覚醒剤乱用期までは「ガラポン」と呼ばれるガラス製注射器も多く使用されていたが、第三次覚醒剤乱用期ではインスリン注射用の使い捨てタイプを使用するのが主流となっている。覚醒剤をライターで炙って煙を吸引する摂取方法は「炙り」と呼ばれ、近年はこの摂取方法での乱用が増えている。乱用者はヒロポン中毒を意味する「ポン中」や「シャブ中」などと呼ばれる。, 東アジアでは、syabu (shabu、シャブ)、speed(スピード)、ice(アイス)などの俗称がある。中国では「冰毒」(ビンドゥ)、北朝鮮では「빙」(ピン)などとも呼ばれる。韓国では、日本の商品名「ヒロポン」(히로뽕(필로폰))の名で知られる。, 東南アジアのマレーシアでは batu Kilat (バトゥ・キラット)、フィリピンでは batak (バタク)、タイでは yaaba (yama、ヤーバー、ヤーマ)などと呼ばれる。覚醒剤は、コカインよりも強い向精神作用が長時間続き末端価格も安いため、フィリピンなどでは「貧乏人のコカイン」という意味の poor man's cocaine との俗称もある。, メス、アイス、ティナ、ガラスなどと呼ばれる。バイク乗りたちが覚醒剤の隠し場所にバイクのクランクケースを利用したことが由来とされる crank(クランク)や、結晶が鉱物のクリスタルと似ていることから crystal(クリスタル)との俗称もある。乱用者はtweakers(tweekers、トゥイーカー)などと呼ばれる。, 覚醒剤は粉末状では白色、結晶状では無色透明になるが、他の興奮・覚醒薬などを混ぜたことにより着色されたものも乱用されており、赤色は strawberry quick(ストロベリー・クイック)、ピンク色は pink panther(ピンクパンサー)などと呼ばれている。これらは、その色合いと名称から抵抗感が少なく、10代や20代の若い世代も遊び感覚で手を出しやすい。日本の乱用者は白色粉末や透明結晶状の高純度の覚醒剤を好むため、着色されたものが日本に密輸されることは少ないが、MDMAやカフェインなどと覚醒剤との混合錠剤(ヤーバーなど)の多くは着色されており、これらの日本への密輸は近年増加している。, 不純物が取り除かれた高純度のものは nazi dope(ナチ・ドープ)と呼ばれる。これは、アンフェタミンがドイツ帝国の科学者によって開発され、第二次世界大戦時にナチス・ドイツの兵士が使用していたことに由来するもので、覚醒剤本来の形、非常に純粋で純度が高いという意味で使われる。, 米国では、覚醒剤の原料になる鼻炎薬や風邪薬が薬局で手に入るため、自宅などで密造する乱用者が多いが、隣国メキシコの麻薬カルテルによって製造された覚醒剤も大量に密輸されており、これらはメキシカン・アイス (mexican ice) というブランド名で流通する。メキシコの麻薬カルテルは麻薬製造のために巨額の投資を行い、高度な技術と設備を有しているため、メキシコから密輸される覚醒剤は、個人や小規模の密造グループが製造するものよりも純度が高く乱用者の間で人気が高い。, 原料になる鼻炎薬や風邪薬を買い集める犯罪者は smurfers (スマーファー)と呼ばれ、スマーファーが買い集めたこれらの薬は、papa smurf(パパスマーフ)と呼ばれる密造者の下に集められる。スマーファーは覚醒剤乱用者が多いため、報酬として覚醒剤を受け取るケースが多い。「パパスマーフ」との俗称は人気アニメ「スマーフ」が語源とされる。, アンフェタミン、メタンフェタミン(また同じく精神刺激薬であるコカイン、メチルフェニデート)は、血液脳関門を通り越して脳内報酬系としても知られる、腹側被蓋野から大脳皮質と辺縁系に投射するドパミン作動性神経のシナプス前終末からのドパミン放出を促進しながら再取り込みを阻害することで、特に側座核内のA10神経付近にドパミンの過剰な充溢を起こし、当該部位のドパミン受容体に大量のドパミンが曝露することで覚醒作用や快感の気分を生じさせる。, メタンフェタミンの反復使用は、ドーパミントランスポーター(英語版)(DAT)[15] やドーパミンD1受容体を減少させる。ミノサイクリンの前投与と併用によって、DATの減少やD1受容体の減少を抑えることができる[16]。, 最近の研究では、非定型抗精神病薬との併用試験において、快の気分が生じなくても心拍数や血圧の上昇が起こることがあり、薬物への依存性にほとんど変化がなかったとの結果が示された。これらの研究では、非定型抗精神病薬を併用した方が心拍数や血圧の上昇を増強しているようであり、依存の治療にはむしろ有害である可能性が示された[17][18]。, 血圧上昇、散瞳など交感神経刺激症状が出現する。発汗が活発になり、喉が異常に渇く。内臓の働きは不活発になり多くは便秘状態となる。性的気分は容易に増幅されるが、反面、男性の場合は薬効が強く作用している間は勃起不全となる。常同行為が見られ、不自然な筋肉の緊張、キョロキョロと落ち着きのない動作を示すことが多い。さらに、主に過剰摂取によって死亡することもある。食欲は低下し、過覚醒により不眠となるが、これらは往々にして使用目的でもある。, 中脳辺縁系のドパミン過活動は、統合失調症において推定されている幻聴の発生機序とほぼ同じであるため、覚醒剤使用により幻聴などの症状が生じることがある。まれであるが、長期連用の結果、覚醒剤後遺症として統合失調症と区別がつかないような、慢性の幻覚妄想状態や、意欲低下や引きこもりといった、統合失調症の陰性症状の様な症状を呈し、精神科病院への入院が必要となる場合もある。, アンフェタミン誘発性精神病は、統合失調症の精神障害のモデルであり、急性症状は区別がつかないが、アンフェタミンによるものは早く回復することで鑑別診断が可能である[19]。しかし、日本の研究者はこれに反して、精神病の軽快後の自発的な精神病の再発をフラッシュバックと呼んでいる[19]。, 静脈内注射に伴う合併症として、注射針の共用によるC型肝炎、HIVの感染、注射時の不衛生な操作による皮膚・血管の感染・炎症、菌血症などがあげられる。, 1885年、長井長義が麻黄からエフェドリンの抽出に成功。1887年にドイツ帝国で、エフェドリンからアンフェタミンが合成され、1893年に長井と三浦謹之助によってエフェドリンからメタンフェタミンが合成された。1919年、長井長義の弟子である緒方章が、メタンフェタミンの結晶化に成功している。, 覚醒剤としての使用は、アメリカで薬理学者ゴードン・アレスが、1933年にアンフェタミンから吸入式喘息薬を開発し、ベンゼドリン (Benzedrine) として市販されはじまる。咳止めというより疲労回復のために長距離トラック運転手や、スーパーマンになれる薬として学生の間で乱用され、また食欲減退効果があることから、ダイエット薬として販売する業者も現れた。こうした乱用の報告を受けてアメリカ食品医薬品局 (FDA) が、1959年に処方制限に踏み切った。, 日本では、1941年(昭和16年)、大日本製薬(現大日本住友製薬)がメタンフェタミン製剤ヒロポン、武田薬品工業がアンフェタミン製剤をゼドリンとして市販された[12]。ヒロポンの効果や売上げはゼドリンよりも大きかった。メタンフェタミン製剤は他に、ホスピタン、ネオアゴチンといった医薬品、アンフェタミン製剤は他に、アゴチンといった医薬品があり、密造品にも似せてそれらのラベルが貼られた[13]。密造の売買に関わったものは主に朝鮮人とされる[13]。, ヒロポンの効果については、医学界で発売以降に様々な研究をしていたが、効果は「之を服用すれば心氣を爽快にし、疲勞を防ぎ、睡魔を拂ふ等の興奮効果があり、しかも習慣性、蓄積作用等がないので、現在歐米各國の民間に於て興奮劑乃至能率増進劑として好んで使用されてゐる。即ち米國ではBenzedrine、デンマークではMecodrin、ハンガリアではAktedron等の名稱を以て盛に賣出されて居る。時局柄、產業、事務等各方面に於ける本劑の利用も或は一顧の價値あらんかと、ここに御紹介する次第である。」と先に市販されている他国の例も出して除倦覺醒効果が強く有用な薬品であるとしていた一方で、常習性はないと分析していた。また不眠、食思不振、頭痛、焦燥感などの副作用も臨床実験で報告されていたが、効果・副作用を分ける基準が、主として被験者の主観的によるものが大きいとして特に問題にされていなかった[20]。, 日本軍の覚醒剤の使用目的は、当時の医学界の研究成果の通り、「疲労回復」や「眠気解消」や「士気向上」程度を期待されていたものと推定される。それを証明する証言として、戦後の国会での厚生委員会で、厚生省薬務課長が戦中の覚醒剤の製造認可に対する質疑で「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます。」と答弁しており、覚せい剤の使用目的は「疲労回復」であったとしている[21]。仕事の能率を高めるなどとして精神科医の方面から宣伝され[13]、夜戦の兵士や、軍需工場の工員に能率向上として半強制的に用いられ[22]、兵役中に味を占める者も出てきた[13]。, 「パイロットの塩」などと呼ばれるほど、塩なみのパイロットの必需品として使用していたドイツ空軍[23]にならって、日本軍においても航空機パイロットに対しても支給され、戦闘機パイロットにはナチス・ドイツよりの「Fliegerschokolade」の情報を元にして生産された「ヒロポン入りチョコレート」が、疲労回復目的で支給されている[24][25]。また「大空のサムライ」坂井三郎中尉もラバウルで連日激しい空中戦を戦っていた際に、疲労回復のブドウ糖と一緒にヒロポンを注射したと戦後に軍医に明かされたと証言している[26]。, 薬学の専門家からは、メタンフェタミン自体が鎮咳剤エフェドリンの誘導体として開発された経緯もあり、初めは咳止め効果を期待していたが、覺醒効果の方が顕著だったために、主に眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用に応用されていたという指摘もある[27]。その例として、夜間戦闘機月光搭乗員として6機ものB-29を撃墜した旧帝国海軍のエース少尉・黒鳥四朗と飛行兵曹長・倉本十三のペアが、夜間視力が向上するとの事で、ナチス・ドイツより輸入された「暗視ホルモン」という名前のメタンフェタミンを注射され、戦後その副作用に苦しめられたとされる[28]。ただし、戦後にGHQに接収された海軍航空技術廠の資料によれば、「暗視ホルモン」の成分は、牛や豚の脳下垂体から抽出されたメラノフォーレンホルモンとされ、ナチス・ドイツからの輸入品ではなく日本国内で製造され、台湾沖航空戦で既に使用されており、副作用等の毒性はないものである[29]。, 戦時中の覚醒剤の服用方法は、戦後の参議院の予算委員会の質疑において厚生省の政府委員によれば「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」との答弁通り、ほぼ服用であり、効果の強い注射による投与は例外であったとしている[30]。しかし、若年者に市販の安い注射剤が蔓延していたという指摘もある[2]。, また、特攻隊員の恐怖心を失わせるために投与されたと主張する者もいるが[31]、歴史学者吉田裕からは、「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」などと史実とは異なるとの指摘があっている[32]。陸軍は、覚醒剤ではなく、パイロットに能力を最大限発揮させる栄養食品を作る事を目的に莫大な陸軍予算を投じおり、主に陸軍第七技術研究所を中心として開発されていた。当時の東條英機首相の号令で開発が進められ、首相以下 近衛文麿、広田弘毅、若槻禮次郎といった元老らなど、軍や政治の中枢を首相官邸に集めて、航空糧食の講演会が開かれており、当時の政府や軍の期待度の大きさが覗える[33]。サイパンの戦いに敗北し東條が失脚した後は、戦局悪化により航空特攻の準備が加速するとともに、栄養食品の開発も加速し、東京大学などの協力も受けて「航空ビタミン食」「腸内ガス無発生食品」「航空元気酒」「疲労回復酒」「防吐ドロップ」「早急出動食」「無火無煙煙草」など多数の栄養食品や機能付食品や嗜好品が作られ、特攻隊員など前線のパイロットに支給されていった[34]。, 特攻隊員が覚醒剤を使用していたという話が蔓延した経緯として、戦後のGHQによる日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により[35]、旧日本軍の貯蔵医薬品と一緒に大量に開放された覚醒剤は、一般社会へ爆発的に広まり中毒者が激増し社会問題化したが、他の多くの社会問題と同様に覚醒剤も暗黒時代であった戦時中の象徴であったとする主張がなされるようになり、事実とは異なる証言や回顧が巷に氾濫する事となった。その一例として、自らも薬物中毒で苦しんだ経験を持つフランス文学者平野威馬雄が、戦時中に軍需関係の会社の従業員していた人物より戦後の1949年に聞いた「頭がよくなる薬が手に入った。これは部外秘というやつで、陸海軍の特攻隊の青年だけに飲ませる“はりきり”薬で、ヒロポンという名前だ。長くない命に最後まで緊張した精神を維持させる薬だ。」という話を紹介しているが、一般に流通していたヒロポンを「部外秘」としたり、特攻隊の青年だけに飲ませていたといったような事実に反した話が広まっていたことがうかがえる[36]。これは軍部を非人道的機関と位置づけ、覚醒剤禍の元凶として批判すべき対象とした際に、特攻隊員がその象徴として利用されていたことの例の一つであったとされている[37]。, 覚醒剤は他の薬品同様に本土決戦のために大量に軍が備蓄していたが、日本が敗戦すると日本に進駐してきたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収された。その後、1945年12月にGHQによる指示(SCAPIN-389)で[38]、GHQが接収していた大量の医薬品をまずは医療機関、翌年には一般国民に大量放出(当時の時価で1億円)した際に、ヒロポンも同時に放出され、大量に巷に流通し出した[39]。, 戦後間もない闇市ではカストリ焼酎一杯より安い値段で1回分のアンプルが入手できたため、芸人や作家やバンドマンといった寸暇を惜しんで働く者たちから、興味半分で始めた若者まで瞬く間に広がり、乱用者が増加していった。またヒロポンは、薬局においてアンプルや錠剤と言う形で販売されており、1943年から1950年までは、印鑑さえ持っていけば誰でも購入できたため、タクシーの運転手や夜間勤務の工場作業員など、長時間労働が要求される職種の人々に好んで利用され、その疲労回復力から大変重宝された。しかし、即効性の高いアンプルは常に闇に流れ品不足が常態化しており、1949年の新聞で、薬局では錠剤しか入手できなかったと報道されている。この結果、日本ではメタンフェタミンが社会に蔓延し、多数の依存症患者を生み出す事となった。, 坂口安吾の『反スタイルの記』などから、当時の流行作家におけるヒロポン濫用の様子が伺える。他にも田中英光、織田作之助が乱用した[22]。, ヒロポンを販売していた大日本製薬会社は国会で「ただ大量に使つても生命の危険はない薬だというふうに考えておつたのですが、昭和二十二年頃からぼつぼつ中毒が現われたというお話でございます。我々の聞き知つたのは、もつとあとでございまして(中略)つまりたばこを吸つてたばこがやめられなくなると量が殖えるという程度のものとしか思つておらなかつたのです。ところがいろいろ御研究になりますと、麻薬に類したような禁断症状さえ出て来るというようなお話を伺つて、実はびつくりしたわけであります。」と戦後暫く経ってからようやく毒性を認識したと証言するなど[40] 対策が後手に回ったこともあって、やがて蔓延が社会問題化することとなり、ようやく様々な措置が取られることとなった。, 1948年(昭和23年)7月には薬事法における劇薬の指定[41]。翌年3月には、厚生省から各都道府県知事に、国民保険上憂慮すべき事態の発生が考えられるため、販売制限を予定し、疲労防止などの表示を除去するという通達をし、10月には製造自粛などを通達し、1950年2月には医師の指示が必要な処方箋薬となり、11月29日に生産中止を勧告[41]。(当時の処方箋指定の無意味さは精神安定剤#歴史も参照), そして、遂に1951年に覚醒剤取締法が制定され、施行され、医療用と研究用に制限された[41]。しかし、まだ密造の覚醒剤が流通した。1954年(昭和29年)には、覚せい剤取締法の罰則が、懲役3年以下から5年以下へと強化された[41][2]。同年55,664人の検挙を経て、3年後には1000人を下回り、医薬品の軍部からの流通から生じた第一次覚醒剤乱用期は終息を迎えた[2]。, 1954年には、経験者200万人、使用者50万人から100万人、中毒者20万人とされ、9月に東京大学医学部附属病院神経科に覚醒剤中毒での入院があり、翌々年には東京都立松沢病院に入院があり、年々で136名まで増えていった[41]。, しかし、取締りは逆に暴力団に流通を握らせることとなった[2]。覚醒剤自体は非常に安価に製造できるが、取引が非合法化されているため闇ルートでの流通となり、末端価格(小売価格)は数百倍にも跳ね上がる。, 1970年(昭和45年)には、再び検挙数が1000人を超え、主に韓国ルートの密輸が増加し、他に台湾、タイ、マカオからである[2]。1973年には罰則が懲役10年以下に強化され、1976年には検挙者が1万人を超えた[2]。第二次覚醒剤乱用期となり、価格が高く、暴力団や水商売回りに乱用が流行した[2]。, 1980年代後半以降は芸能人・ミュージシャンなどの知名度や影響力の高い人物が覚醒剤使用で検挙されるケースも後を絶たず、繰り返しセンセーショナルな社会的話題となっている。, そして1995年から検挙数が増加し第三次乱用期とされ、携帯電話が普及し、元締めは暴力団だが末端の販売員がイラン人や友人となり暴力団関係者と接触せずに入手されるようになった[12]。同年にはオウム真理教が「修行」として覚醒剤を密造し信者に投与していたことが発覚し問題となった。, 近年では、北朝鮮・台湾・トルコなど各地からの密輸も相当量あるといわれ、特に北朝鮮のそれは同国の主要な外貨獲得手段となっていると指摘されている。中学生・高校生が栄養剤感覚や痩せ薬感覚で手を出したり、主婦がセックスドラッグと騙されて服用するケースも増加し、薬物汚染として社会問題になっている。2005年、覚醒剤所持で逮捕された衆議院議員・小林憲司(当時民主党)が、衆議院議員在職中にも覚醒剤を使用していたことが判明し、国民に大きな衝撃を与えた。, 依存症が治療されず、覚醒剤の乱用が50年以上続いている稀有な国である[42]。

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