雷電為 右 衛門 の 禁じ手 閂 4

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(注意・雷電の名前を「爲」右エ門ではなく、「為」右エ門の表記で統一しています) 雷電為右エ門を知るおすすめ作品 履歴 初土俵まで 雷電は、明和4(1767)年に現在の長野県に生まれました。

雷電為右衛門伝説とその実像 ... 負傷させてしまうというので、雷電は「張り手」、「突っ張り」、「かんぬき」の三手を禁じ手とされたと言われているが、それが事実であったかどうかはいまひとつ定かで … 引退後は藩の相撲頭取として力士の世話を任され、しばらくは江戸で活動する。

雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、1767年(明和4年)1月 - 1825年(文政8年)4月9日(旧暦2月21日))は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の元大相撲力士。本名は関 太郎吉(せき たろうきち)。, 現役生活21年、江戸本場所在籍36場所(大関在位27場所)で、通算黒星が10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされている[1]。なお、本文中の日付は全て旧暦である。, 1767年(明和4年)1月、信濃国小県郡大石村字金子(現・長野県東御市)にて関家の長男として誕生、幼名は太郎吉(または樽吉)とされた。幼い頃から体格に恵まれ、14~15歳の頃には既に6尺(約181センチ)に達しており、家事を手伝いながら上野国まで往復していた。, 13歳の時、小諸の城下町へ出稼ぎに行き、精米所の柳田藤助の下で奉公した。そこでの仕事ぶりと怪力が評判となり、藤助の伝手で長瀬村の庄屋・上原源吾右衛門(後の2代・為久)が関家へ相撲の修行をさせたいと申し込んできた。上原家では代々が相撲好きで、自前の土俵を構えて20名ほどの少年の世話をしていたほどで、かつてこの地で巡業を行っていた浦風林右エ門が上原家と親交があったこともあり、道場から浦風部屋へスカウトされたこともあったという。, 1781年(天明元年)4月、太郎吉は上原道場の門弟となり、相撲の稽古に加えて読み書き、そろばんを習うが、読み書きも四書五経を習うなど、門下生の中でも秀才四人衆の一人に数えられた。源吾右衛門は太郎吉にさらなる期待を寄せ、長昌寺の監峰和尚に太郎吉を向かわせて厳しい修業を行った[2]。, 1783年(天明3年)になると天明の飢饉が発生し、全国で一揆が発生したため、当時の相撲集団の大きな収入源だった巡業も中止が相次いだ。浦風一行も北陸地方を中心とした巡業を行っていたものの中止となったことから収入源を断たれ、幸運にも凶作の被害を受けなかった上原道場に戻り、力仕事を手伝いながら慰安相撲を行い、翌年春まで逗留した。太郎吉もこの間に関取の稽古を受けて力を付け、浦風から力士転向を勧められたという。, 太郎吉は1784年(天明4年)秋に上京するが浦風はすぐに初土俵を踏ませることはせず、まずは伊勢ノ海部屋へ入門させ、当時の角界の第一人者だった谷風梶之助の内弟子として稽古を付け、その素質を存分に開花させる方針を採る。不況による本場所の中止が相次ぐ中で太郎吉は谷風の胸を借りて力を付け、初土俵に備えた[3]。, 1788年(天明8年)11月、部屋の柏戸勘太夫の紹介で松江藩の抱え力士となり、4人扶持で松江藩士となると同時に、信州の両親には金40両が与えられた。四股名は、雲州ゆかりの「雷電」を名乗ることを許された[4]。, 1789年(寛政元年)、甲斐国鰍沢村(現:山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)において西片屋のみの巡業を行い、雷電は都合で欠席した谷風に代わって大関として7日間の興行を行った。これが記録に残る雷電の初土俵で、この番付のみ「雷電 為五郎」の表記である[5]。巡業終了後はそのまま大坂へ向かい、同年8月場所(大坂相撲)で小結に付出された。本場所での番付登場は初だったが、この場所は全休となる[6]。, 江戸で行われた同年11月場所は師匠・浦風が勧進元だったが、雷電ら雲州抱えの力士は藩主・松平治郷の指示によって大坂から松江へ向かい、参加出来なかった。同年8月23日に三人扶持で扶持米を下賜され、正式に藩の相撲衆に加えられると、そのまま雲州で稽古、相撲披露、巡業などを行ってそのまま越年した。江戸では谷風が小野川喜三郎と共に吉田司家から横綱免許を授与され、これを機に江戸相撲は最初の相撲黄金時代を迎えることとなる[7]。, 雷電は結局、1790年(寛政2年)3月場所を欠場した。2場所連続の全休となり、藩主から江戸勤番の命が下ったために4月20日に江戸へ入り、5月24日から泉岳寺の花相撲に出場した。続いて参加した四谷での興行はさらに小規模な「稽古相撲」扱いで、寺社奉行の見分も不要という新しい形態での相撲だったという。その直後に病に倒れ、7月下旬から開始された北陸巡業には遅れて参加するが、柏崎・善光寺・熊谷・鴻巣と回る合間を縫って帰郷している[8]。11月場所においてようやく江戸相撲における初土俵を踏み、雷電は谷風の後を追うように、柏戸を上回って関脇に付出されると、10日間の興行で8勝2預の優勝相当成績を挙げる。8日目の小野川喜三郎戦では雷電の寄り倒しと小野川の打っ棄りを巡って大物言いとなり、勝負検査役は預とした。雷電は自身が勝っていたとの思いが強かったらしく、『諸国相撲控(通称・雷電日記)』ではこの日の結果について、「小野川も投げ候」と記している。, 江戸相撲でいきなり優勝相当成績を挙げた雷電は、1791年(寛政3年)に木更津での興行を終えて江戸へ戻り、同年4月場所に出場する。初日から3連勝と危なげなく白星を並べたところに上覧相撲によって本場所開催が中断される。当時の上覧相撲は本場所とは別物として考えられており、現在の天覧相撲のように本場所の途中(8日目)に設定されているわけではなかった。雷電は6月11日の上覧相撲で結び前に関脇・陣幕島之助と対戦するが、陣幕の立合いから一気ののど輪を受け、真一文字に土俵際まで押し込まれ、そのまま押し出しで敗れた。この敗戦が雷電にとって公式戦での初黒星となった。上覧相撲終了後に再開された本場所においても、5日目に前頭4枚目・梶ヶ濱力右エ門に敗れるなど、6勝1敗1無2休と物足りない成績に終わった[9]。本場所終了後は藤沢で興行を行った後、大坂相撲の同年8月場所に出場して谷風に代わって大関を務め、江戸に戻ってから出場した同年11月場所では8勝1預1休の好成績を挙げた。, 1792年(寛政4年)2月28日、雲州抱えの力士は藩主の命によって松江へ下ったため、雷電は江戸相撲の同年3月場所を全休した。3月下旬までの滞在期間中に御前で稽古相撲を行い、4月10日に大坂へ入ってから名古屋、大坂、京都と連続興行を行う。京都相撲では九紋竜との取組の途中、雷電を一目見ようと駆けつけた大勢の見物客の詰め過ぎと騒ぎ過ぎによって桟敷が落下、複数の怪我人が発生したことから取組は引き分けとされた。場所終了後には兄弟子・柏戸が死去、9月の大坂相撲は不入りで打ち切られた他、江戸相撲11月場所は大雪によって3日間で興行が打ち切られる(成績は2勝1休[10])など、この年の雷電は多忙な日々を極めた。その中で、臼井の甘酒屋の娘・はん(後の八重)と結婚し、麹町十丁目の長屋に新居を構えた。, 1793年(寛政5年)1月から銚子などの巡業を行い、江戸相撲3月場所は8日目に常山五郎吉戦で敗れるなど、8勝1敗に終わった。この頃から巡業の形態も変化が加わり、6月の掛川・袋井の巡業を経て、8月には松江へ小野川喜三郎ら藩外の力士を招き入れ、大規模な国内巡業を行った。御前相撲では小野川と対戦して五分の成績だった[11]。同年10月場所では8勝1預1休で、初土俵以来6場所ぶりの優勝相当成績を挙げた。これ以降、出場した本場所で優勝を逃したのは僅か2場所である。, 1794年(寛政6年)の帰省中に桜田火事が発生したが、松江藩の屋敷と雷電の自宅は被災を免れた。雷電はこれを受けて神田明神で義援興行を行った後、3月場所に出場する。当初、寺社奉行から上覧相撲が近いことを内示されたために勧進元は開催を急いだが、雷電は初日の出場が間に合わず休場となる。4月9日の上覧相撲では千歳川庄太夫を押し出しで下した後、「お好み相撲」では幕下・磐井川逸八と対戦して付き膝で勝利した。, 1795年(寛政7年)の年始に江戸中をインフルエンザが猛威を振るい、この影響で1月9日に谷風が亡くなる。同年3月場所では雷電が大関に昇進し、全勝するも雨天続きとインフルエンザの影響により5日目で打ち切りとなった[12]。1797年(寛政9年)3月場所7日目に花頂山五郎吉に敗れたが、花頂山は4年前に敗れた常山と同一人物で、雷電が2敗した唯一の対戦相手である。5月に入ると藩主・松平治郷が病に倒れ、鶴の一声で急遽松江に戻り、8月に治郷が回復するまで毎日のように御殿で相撲を奉仕したという。この時代の相撲は女人禁制を解除して幕下以下の取組のみ披露するのが慣例だったが、この場所では雷電、小野川が共に五人抜きを披露した。ところが、本場所終了後に小野川が現役引退を表明し、雷電の一強時代が続く[13]。, 1798年(寛政10年)6月からの奥州巡業に出発すると、片屋を庄内藩・秋田藩の力士が占めており、雷電らは客分格扱いとされた。その間に長女を亡くす悲劇に見舞われ、同年10月場所は小野川の久留米藩に代わって雷電から2勝目を挙げた花頂山の庄内藩が東方を支配し、両藩の家老が土俵下に控えて行司、親方衆を巻き込んで口論となるなど大荒れの場所となったが、これらの逆境を乗り越えて9勝1休の優勝相当成績を挙げた。しかし、場所中の11月7日に今度は父・半右衛門が死去する[14]。雷電はその後、1799年(寛政11年)11月場所でも9勝1休の優勝相当成績を挙げ、休場した場所を除くと11場所連続での優勝相当成績という空前絶後の記録を打ち立てた。12月に藩から松江行きを命じられるが、体調不良により江戸に留まる[15]。, 雷電は年が明けた1800年(寛政12年)2月に改めて松江へ向かうが、江戸本場所の開催期日を延ばすように松江藩と出場交渉するも実らず、これに合わせて延期されていた大坂相撲には間に合ったものの、番付編成は既に雲州力士抜きで編成されていたために出場が叶わなかった。雷電は仕方なくそのまま北陸巡業へ向かい、実家に立ち寄って生家を立て替えている。同年10月場所初日に鯱和三郎に敗れ、江戸相撲での連勝が44で止まった。最終的に6勝1敗1預2休となり、優勝相当成績も無敗の千田川だった[16]。, 1802年(享和2年)2月、松江藩主・松平治郷が参勤交代で江戸へ向かった後、丸亀藩抱えの大関・平石七太夫が訪問しており、一行の出発前の合間を縫って2日間のみ興行を行うが、この興行は開催前日に急きょ決定したもので、文字の部分が白い凹番印刷の番付表となった[注釈 1]うえ、雨雪によって客入りが悪かった[17]。その後は浜田、広島を経由して九州へ向かい、4月には島原で半月ほど過ごす。この間に長崎で中国人と酒の飲み比べをして勝利し、書画や支那カバンを譲られた[注釈 2]。長崎での興行は雨に降られ、10日間の興行を全て開催するのに1ヶ月を要した。, 1804年(文化元年)には3月場所を帰藩で病欠したことにより休場し、6月に仙台で谷風の追善相撲を行う。江戸に戻ってからは10月場所5日目の柏戸宗五郎戦で不覚を取り連勝が38で止まるも、8勝1敗1休で優勝相当成績を挙げた。1805年(文化2年)2月場所開催中にめ組の喧嘩が勃発するも、雷電は直接関わっていないと思われるが日記には大喧嘩の描写が事細かに記されていた。その後も同年10月場所6日目の春日山鹿右衛門戦、1806年(文化3年)2月場所4日目の音羽山峰右エ門戦にそれぞれ敗れる。音羽山は立合いで雷電の足を取る奇襲作戦で土を付けたとされ、「雷電は雲の上にてゴロつくに 音羽が山の下でころころ」と歌われた。この時に文化の大火が発生したために本場所は5日間で打ち切られ、その後も巡業も大火による不況によって巡業の勧進元が見つからず、一行が自主興行しながら進む異例の形を採る。大坂相撲の5月場所も「手興行」に悪戦苦闘中だったために出場できるはずが無く、本場所も悪天候で順延に順延を重ね、大火によって長期中断を余儀なくされた。その中でも雷電は9勝1預の優勝相当成績を挙げるなど、度重なる天災の中でも無類の強さを維持し続けていた。, 雷電はその後も優勝相当成績を挙げ続けていたが、同時に黒星の数も徐々に増えて行く。1808年(文化5年)10月場所の鏡岩濱之助戦で不覚を取り、1809年10月場所には新入幕だった立神盤右エ門に敗れるなど、周囲からは体力の限界説まで出てくるほどだったという。それでも1810年(文化7年)2月場所では9勝を挙げるなど活躍するも京都相撲では2敗を喫したほか、同年10月場所5日目には過去13回対戦して全て勝利していた江戸ヶ崎源弥に14回目の対戦で初黒星を喫した。藩主・松平斉恒の参勤交代に先発するも腰痛のために小田原で特例により離脱するなど腰への不安もあり、最後の対戦となった柏戸との大関対決を引き分け、1811年(文化8年)2月場所の全休を最後に現役を引退した。江戸本場所での通算成績は254勝10敗(34場所)、勝率.962だった[18]。, 1811年(文化8年)2月14日、参勤交代で江戸に滞在していた松江藩主・松平斉恒の許可を得て現役引退、同時に藩の相撲頭取に任命された。雷電の引退によって、出雲抱え力士は関脇・玉垣額之助ただ一人となった。雷電は藩命によって他藩の力士の勧誘や、玉垣に有利な番付・取組編成のための交渉を命じられるがどれも上手くいかず、玉垣自身も1812年(文化9年)に大関を1場所だけ務めて現役引退を表明した。これによって抱え力士がいなくなったため、雷電は善光寺で引退披露相撲の興行を行い、松代藩主・真田幸専の御前相撲も披露するなど、半現役の状態がしばらく続いた[19]。, 1814年(文化11年)には、3年前の火災で被災した報土寺の再建にあたり、藩ゆかりの寺だった縁で雷電が鐘楼と梵鐘を寄贈する。同時に雷電と親交のある狂歌師・蜀山人の提案で相撲をモチーフにした梵鐘を制作して評判を呼んだが、幕閣・本多忠顕に目を付けられる。本多家は元々出雲・松平家と反りが合わないことから、鐘の鋳造について寺の住職などが呼び出され、ついには雷電の相談に乗った贔屓の旦那衆の一人が獄死を遂げた。結局、雷電自身も江戸払いに処せられてしまう。, 1815年(文化12年)、49歳となった雷電は巡業も含めて完全に現役を引退する決意を固め、8月12日に初めて上京する際に出世を誓ったとされる白鳥神社で最後の相撲興行を行い、完全に土俵を去った。, 雷電はその後も、頭取として抱え力士(当時の出雲藩では大半が江戸籍の出入り力士だった)の世話や藩主との調整、相撲会所での本場所出場の交渉などを行った。この頃は前藩主の松平不昧が病に倒れ、1818年(文化15年)2月場所直前には藩の看板力士だった鳴滝忠五郎が現役死亡するなど、多忙な日々が続く。それでも再編成された番付で小結となった縄張綱右エ門が優勝同点の好成績を挙げて面目を保つと、場所中の雷電は毎日会所で待機し、勝負付きが刷り上がると早馬で不昧の元へ届けていた。しかし、場所終了後の4月24日に不昧が亡くなると、同年秋から翌年にかけて出雲力士の有馬山龍右エ門の「小野川」襲名を巡って久留米藩と対立、雷電は双方の要求の板挟みとなり、結局襲名を短期間で断念せざるを得なかった。さらに、藩主・斉恒自身が相撲に熱心で無かったこともあって抱え力士を他藩へ移籍させ始めると、雷電も命に従って各藩に力士移籍の交渉を行った。また、藩に掛け合ってそれまで世話を掛けた弟子達に対して化粧回しなどを分け与えていた。, 1819年(文政2年)3月28日、3月場所開催分の給金7両を受け取って相撲頭取を辞職、同時に松江藩との縁を切った。それでも4月11日には、斉恒の参勤交代出発の日に雷電をはじめとする旧抱え力士が集まり、品川まで見送った[20]。, 松江藩との縁を切った雷電だが、1822年(文政5年)の旧主・斉恒の葬儀では斎場の遠くから見送ったり、母・けんの葬儀には帰郷せず、三回忌の際に帰郷した記録が残っている。, 1823年(文政6年)には臼井にある妻・八重の実家近くで逗留する。この頃から松江藩の家臣の間で力士を再度抱え直すこととなり、雷電もこの動きに加わる。江戸へ戻った雷電は有望な力士を探し、当時幕下だった稲妻雷五郎・鳴滝文右エ門を発掘する。両者はそれぞれ大関・小結まで昇進し、稲妻は吉田司家から横綱免許を授与された。1824年(文政7年)には両者とも柏戸を苦しめるなど好成績を挙げ、「相撲王国」は復活の第一歩を記したが、程なくして雷電は死期の床に就く[21]。そして1825年(文政8年)旧暦2月21日(1825年4月9日)、59歳で死去。, 死因などの詳細を伝える資料は少なく、墓所も赤坂の報土寺に存在するが、生地である長野県東御市の関家の墓地、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓と称するものがある。, 優勝相当成績を通算で28回残している[注釈 3]。これは白鵬翔(43回・現役)、大鵬幸喜(32回)、千代の富士貢(31回)に次いで4位の記録で、年6場所制が始まる以前のものとしては最高記録である。9連覇は朝青龍明徳と白鵬の7連覇を上回って史上最高[注釈 4][注釈 5]。, 雷電が現役時代に喫した黒星は僅かに10、他に上覧相撲での1敗がある。その詳細を以下に記す。, 雷電に勝利した力士はそれだけでも大相撲史に名を残したと言えるが、陣幕・市野上・柏戸の名が高い。音羽山は勝利して歌に詠まれ、め組の喧嘩で佐渡ケ嶽と居残り、火消しと闘って勝利をあげた。, 体格については諸説あるが、江戸相撲で初土俵を踏んだ時の宣伝の錦絵に6尺5寸、45貫(197cm、169kg)と書かれており、これが定説となった[24]。また、遺された手形がすべて左手で、また足駄の左足の摩耗が著しいことから、左利きであったと思われる[25]。, 当時の力士としては高い教養の持ち主で、「諸国相撲控帳」(雷電日記)、「萬相撲控帳」を残した[注釈 7]。これは相撲に限らず、江戸の風俗を知る上で貴重な資料にもなっている。, 酒豪として知られ、雷電が現役時代より記した日記『諸国相撲控帳』によると、享和2年(1802年)、長崎で清の学者の陳景山と飲み比べを行い、2斗(36リットル)の日本酒を飲んで飲み比べに勝ち、なおかつ酩酊しなかったという[26]。, 関家は農家ながら、地元ではかなりの旧家であった[27]。言い伝えによると、戦国時代は村上義清の侍大将であったという。村上氏没落後は再起をかけつつ帰農したという[28]。, 現在、「雷電の子孫」を名乗る関家は長野県東御市と島根県松江市に一軒ある。前者は雷電の妹・とくの流れを汲んで雷電顕彰会を主宰している。後者は雷電の没後、松江藩のとりはからいで、八重が雲州力士・朝風石之助を養子に迎えて松江藩士としての家系存続を許されたもの。両家は現在も交流を続けている。, 雷電が横綱免許を受けなかった理由としては次のような諸説があるが、どれも決め手を欠いている[34]。, 現代のように、横綱審議委員会の横綱推薦内規(大関で2場所連続優勝)が定められているという視点からは、雷電ほどの好成績でありながら横綱に昇進していないのは不可解である。しかし新田一郎は、上記の諸説が「横綱という制度がありながら、それにふさわしい雷電がなぜ横綱を免許されなかったのか?」という前提に立っていることを指摘しており、「吉田司家から谷風と小野川が横綱免許を受けた段階では横綱は恒久的制度として成立しておらず、上覧相撲における演出の一つとして一回限りのものとして構想されたために、雷電が横綱を免許されていない」という説を立てている[35]。, 実際、吉田司家の横綱免許は谷風・小野川の授与の後、39年もの歳月を経て1828年(文政11年)の阿武松緑之助まで行われていない。この阿武松の免許の前段階として、1823年(文政6年)に相撲の家元を名乗る京都の五条家が谷風・小野川の横綱免許という先例に目をつけ、柏戸利助・玉垣額之助に独自で横綱免許を与えていた[注釈 9]。これに負けじと、吉田司家は江戸幕府に対し自らの相撲指揮権について確認することを要求、1827年(文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、1828年(文政11年)正月に江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、2月に吉田司家は阿武松に横綱を免許した。これを機に吉田司家は五条家を牽制し、結果として五条家も吉田司家の免許権を認めた。新田は、こうした経緯で横綱免許は制度化したのであって、横綱制度確立以前の雷電に横綱免許が無いのはむしろ当然であり、雷電は「横綱以前」の強豪力士として位置付けている。, 免許権を持っていた吉田司家、さらに1950年以降免許権を譲られた日本相撲協会ともに、今日に至るまで雷電を横綱として追認するなどの措置はないが、1900年(明治33年)に12代横綱・陣幕久五郎が富岡八幡宮境内に建立した横綱力士碑には「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もある。, ただし、当時は千秋楽に大関5人がかりのようなアトラクション的な取組が行われ、「優勝相当成績」の判定の基礎となる場所成績にはそれらの勝ち星を含んでいることもあることに注意を要する(大日本相撲史より)。, いずれも表題、本文、書きこみなどで複数の筆跡があるため、後に後述代筆されたのではないか、との説がある。, 柏戸が吉田司家に遠慮して横綱土俵入りと共に辞退し、玉垣もこれに倣って辞退して、作られた綱も木戸脇に飾られたままであった。, https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1493240662858/index.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=雷電爲右エ門&oldid=80403486, 1797年(寛政9年)3月場所8日目 - 1799年(寛政11年)11月場所千秋楽, 1800年(寛政12年)10月場所2日目 - 1804年(文化元年)10月場所4日目, 雷電が喫した11敗(上覧相撲を含む)の中でも最大の番狂わせと言われており、取組前から力量の差が歴然だったことから席を立つ観客が多くいたという。, 通算14度目の対戦で初勝利を挙げる(通算は1勝11敗2預)。雷電から勝利するまでの対戦回数14は、勝利力士では最多である。雷電、現役最後の白星献上。, 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p251-252.
ここに「鯖折り」を含めて「四禁」とする説もあり、いずれにしても雷電の規格外な強さを表す逸話として知られている。, 生涯で10度の負けがあるが、内同じ相手に負けたのは1度だけであり、また八百長試合も嫌って常に真剣勝負で挑んだとされる。

「大男総身に知恵が回りかね」などともいわれるが、太郎吉は儒教の聖典といえる『四書五経』を理解し、そろばんに親しむなど頭脳面でも大変に優秀だった。後年に「諸国相撲控帳」(雷電日記)、「萬相撲控帳」を執筆しており、現在でも江戸の風俗を知るうえで貴重な資料なっている。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 雷電為右衛門の用語解説 - [生]明和4(1767).信濃,大石[没]文政8(1825).江戸江戸時代中期の力士。関半右衛門の子として生まれ,天明4 (1784) 年江戸に出て,年寄浦風林右衛門に入門。寛政2 (1790) 年西張出関脇の位置で江戸相撲本場所に初出場。 雷電爲右エ門がイラスト付きでわかる! 江戸時代の力士。 剛力無双で知られる伝説の力士であり、「四禁」を課せられながらも254勝10敗、2分、14預、5無、41休と、勝率96.2%という驚異の大記録を打ち立てた。 雷電爲右エ門とは、江戸時代の力士である。 ヘラクレスの強さの秘密や過去についてまとめました, シヴァと雷電の戦いが熱い! 記録によれば「身長197cm/体重169kg」と、当時150cm台が平均身長だった日本人男性としては異端というべき大男で、現代でいうと現役時代の把瑠都関とほぼ同じ体格であった。
ヘラクレスの持つ神と同等の力の秘密はヘラクレスの刺青にあった!? 雷電カンヌキipa 東御市出身の勝率9割を誇る力士、雷電為右衛門の禁じ手「閂」(かんぬき)をその名に冠したビール。柑橘系のパッションフルーツを思わせる香りと、2杯目を誘う飲みやすさが特徴です。 24缶入り 雷電カンヌキipa 1ケース. 人類史上最強の13人vs天界の最高神13人による人類滅亡を賭けたタイマン勝負4回戦が終わり、2勝2敗の五分で迎えた5回戦登場したのは史上最強の力士【雷電為右衛門】その強すぎる伝説や戦い方を紹介し … 上京後すぐには土俵入りせず、さらなる鍛錬のために伊勢ノ海部屋へ入門し、谷風梶ノ助の内弟子となり稽古に明け暮れる。 雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、1767年(明和4年)1月 – 1825年(文政8年)4月9日(旧暦2月21日))は、信濃国小県郡大石村(現・長野県 東御市)出身の元大相撲 力士。 すなわち「鉄砲(突っ張り)」「張り手」「閂」の三種で、それらによって雷電が試合中に誤って対戦相手を重症もしく死に至らしめたとして、これを禁止されることになった。 Copyright © 2012 nansei-shuppan.com All Rights Reserved. 雷電の神器錬成の秘密が明らかに!? 無類力士・雷電為右衛門と宇宙の破壊神・シヴァ(インド)はどんな戦いを? 雷電爲右エ門がイラスト付きでわかる! 江戸時代の力士。 剛力無双で知られる伝説の力士であり、「四禁」を課せられながらも254勝10敗、2分、14預、5無、41休と、勝率96.2%という驚異の大記録を打ち立てた。 雷電爲右エ門とは、江戸時代の力士である。 ここは江戸時代の名力士“雷電為右衛門”のふるさと。強くて、優しいおすもうさんだった雷電為右衛門。名力士は通算勝率9割6分2里と、とても強かったことで知られています。 現在では「横綱制度ができる前で、得ること自体ができなかった」というのが有力説となっている。 No reproduction or republication without written permission. 雷電為右衛門 禁じ手 雷電爲右エ門. そして数年の後に谷風の胸を借りて土俵入りを果たし、1788年(天明3年)に部屋の紹介で松江藩のお抱えとなって藩士に出世し、雲州所縁の「雷電」の四股名を頂戴した。, 俗説ではあるが、雷電には「三禁」と呼ばれる禁じ手が課せられたという。 寛政3(1791)年、第十一代将軍徳川家斉から、「天下無双」の称号を授けられた力士「雷電」のお話をご紹介いたします。 終末のワルキューレ第5回戦 カンヌキipaは長野県東御市のブルワリーoh!la!ho beerが製造・販売しているipaです。 東御市出身で江戸時代の伝説の力士「雷電為右衛門」がモチーフにされており、商品名にもなっている「閂(かんぬき)」とは雷電為右衛門が得意としていた決まり手の一つのことです。

剛力無双で知られる伝説の力士であり、「四禁」を課せられながらも254勝10敗、2分、14預、5無、41休と、勝率96.2%という驚異の大記録を打ち立てた。.



「碓氷峠で馬を連れている最中に大名行列と出くわし、道の狭さから仕方なく馬を担いで避けた」(その大名からは力士になることを薦められて頭を下げなかったお咎めを無しにしてもらった)、「庭先で風呂桶に浸かる母親を、突然の雷雨から守るために風呂桶ごと担いで土間へ移した」など、その力自慢を示す逸話は多い。 雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、1767年(明和4年)1月 - 1825年(文政8年)4月9日(旧暦2月21日))は、信濃国小県郡大石村(現・長野県 東御市)出身の元大相撲 力士。 本名は関 太郎吉(せき たろうきち)。.

史上最強力士候補雷電 怪力すぎて張り手など3つが禁じ手に 13 いつの時代でも、しばしば好角家の間で話のタネになるものだが、中でも抜群の強さを誇りながら終生横綱となれなかった雷電為右衛門(らいでんためえもん)の存在は別格といっていいだろう。 その後も頭取として藩の相撲に貢献し続け、晩年にはのちの横綱である稲妻雷五郎関を発掘した。 1825年4月9日(文政8年2月21日)、59歳で波乱の生涯を閉じた。 そもそも横綱制度は、雷電の没後に正式に起用されたものであり、それまではあくまで単純に勲章や称号に等しいもので、独断と偏見で選ばれるのが常だった。 生涯一度も勝利したことのない永遠の敗者佐々木小次郎 しかし火事で焼失した報土寺の再建の際に梵鐘を寄贈したところ、松江藩に反目していた幕臣の本田忠顕に目を付けられて言いがかりをつけられた末に、自分をひいきにしてくれた旦那衆から獄死者まで出てしまう。

雷電カンヌキipa 東御市出身の勝率9割を誇る力士、雷電為右衛門の禁じ手「閂」(かんぬき)をその名に冠したビール。柑橘系のパッションフルーツを思わせる香りと、2杯目を誘う飲みやすさが特徴です。 24缶入り 雷電カンヌキipa 1ケース 終末のワルキューレの出場選手一覧と対戦相手、その勝敗結果を紹介します, コミックゼノン8月号に掲載された33話【百閉】のネタバレ・感想を紹介します その佐々木小次郎についてまとめてみました, 元人間だった神【ヘラクレス】 1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。

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対戦相手やその試合結果は? 今なお角界で語られる伝説の最強力士。

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明治時代になり、こうした雷電を含めた横綱制度以前の力士たちの中で、横綱にふさわしい人物たちを「無類力士」と称して富岡八幡宮の横綱力士碑に刻み、現在では横綱と同格と扱われることもある。, 現役終盤、腰を悪くして休業がかさみ、引退を決意。

:信濃国出身、雷電爲右エ門の58年にわたる生涯。画像や名言から、その素顔に迫ります。, 江戸時代後期に活躍した超人的大相撲力士。現役生活21年のなかで黒星はわずか10、勝率9割6分2厘という驚異的な記録を残し、「大相撲史上最強の力士」と称される。身長は197cm、体重172kgと破格の体格の持ち主だった。本名は関太郎吉、幼名は太郎吉または樽吉、愛称は古今十傑。信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)の豪農・関家にて生まれる。子どもの頃から巨漢で怪力無双だったといわれ、さまざまな伝説が残る。やがて相撲の道に進み、江戸へ出て大横綱・谷風梶之助に弟子入り、その後、松江藩主・松平治郷のお抱え力士となった。初土俵を踏んだのは23歳の時で、8勝2預の好成績を残し横綱・小野川喜三郎と熱戦を繰り広げるなどその強さを見せた。以降、向かうところ敵なしの無類の強さを発揮し観客を熱狂させた。雷電のあまりの強さに「突っ張り」「張り手」「閂」「鯖折り」が禁じ手にされたというのは有名(真偽は不明)。44歳で現役を引退、晩年は妻の故郷である下総国臼井(現・千葉県佐倉市)にて悠々自適に過ごした。墓所は東京都赤坂にある報土寺のほか、生地の長野県東御市の関家墓地、晩年を過ごした千葉県佐倉市にある浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓といわれるものがある。また、東京都墨田区にある相撲博物館や報土寺などに雷電の手形が残されており、長さ23.3cm、幅13cmと非常に大きい。雷電が無類の強さを誇りながらも横綱になれなかったことは雷電最大の謎といわれるが、その理由については、「推薦を辞退した」「横綱制度そのものがまだ確立していなかった」など諸説ある。なお、現在、雷電の子孫を名乗る関家が長野県東御市と島根県松江市に1軒ずつある。, 現代に遺された肖像画像(肖像画)や記念画像。ゆかりの土地や墓所・銅像などの画像も。, ゆかりの品が展示されている主な博物館や記念館。現在でも残る墓所、縁のある土地にたてられた銅像など。, 将軍・徳川家斉の上覧相撲として、谷風梶之助、小野川喜三郎、雷電爲右エ門が揃い踏みする. 彼はなぜ人類代表に選ばれたのか? 小さいころからアニマックスを見ては漫画を見てきた私がおすすめ作品やネタバレ・感想や小ネタをどんどん届けていきたいと思います!, 人類史上最強の13人VS天界の最高神13人による人類滅亡を賭けたタイマン勝負 のちに天下無双力士と称えられ、後世までその名を轟かすことになった雷電為右衛門は、明和四年(一七六七)、当時の信濃国小県郡大石村に生まれた。幼名は太郎吉だったという。いまに伝わる雷電の少年期のエピソードはいささか大袈裟過ぎるので、そのまま事実として受取るわけにはいかないが、それはともかく、当時から彼が並外れた力持ちであったのは確かなことだったのだろう。, ある夏の夕刻、母親が庭で据風呂に入っていると、突然、耳をつんざくような雷鳴と稲妻をともなう激しい夕立がやってきた。すると、太郎吉は母親を風呂桶ごと抱え挙げ、家の土間に運び込んだのだそうである。並みの母親だったら、「そんなバカなことはやめてー!」と諌め叫ぶところだが、慌てず騒がず息子のなすがままに身を任せていたらしいから、もしそれが実話だとすると、ずいぶんと遊び心も豊かな母親であったのだろう。その親孝行の逸話にちなみ、「雷電」という四股名が生まれた――というのはあくまでもここだけの冗談だ。, 少年太郎吉の怪力ぶりを伝えるいまひとつのエピソードはもっと凄まじい。荷を積んだ馬を引いて細く険しい碓氷峠の山道に差しかかったところ、加賀百万石の大名行列と行き合わせてしまった。狭い道のためによけることもでず困った太郎吉は、荷を積んだままの馬の足を掴んで頭上に差し上げ、無事に大名行列を通過させた。そして殿様から「天晴れじゃ!」とのお褒めの言葉を賜わったのだという。, 馬の身にしてみれば迷惑千万な話だったろうし、異常な事態に興奮するあまり殿様の籠に向かってお漏らしなどでもしようものならご主人様共々たちまち打ち首になっていたことだろう。そうしてみると、実際に偉かったのはじっとその苦行に堪え抜いた馬のほうだったということになる。本来なら、加賀のお殿様は、「おまえのほうがもっと天晴れじゃ!」とその馬を太郎吉以上に褒め称えるべきだったのかもしれない。ただまあ、そんな皮相な見方はべつとして、今日にまでこのようなエピソードが伝わるほどに太郎吉は怪力の少年だったというわけだ。, その頃のこと、千曲川を挟んで大石村と向かい合う長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。名を成した雷電が故郷に錦を飾り五十両をかけて生家の建て直しをおこなった際、その家が若い頃お世話になった庄屋の家よりも小さめになるように配慮したというくだんの庄屋のことである。学問にも造詣の深かった上原源五右衛門は自ら寺小屋の師匠となり勉学を奨励するとともに、近隣の相撲好きな若者たちの世話をして彼らを育てることにも余念がなかった。たまたまそのことを知った太郎吉は上原源右衛門のもとを訪ねて温かく迎え入れられ、ほどなく同家に寄食するようになった。そしてそこで学問を修め学識を深めるとともに相撲の技を磨き鍛えたのだそうだが、その勤勉ぶりは尋常なものではなかったらしい。, ともすると怪力ぶりばかりが強調されがちな雷電だが、相撲その他に関するさ優れた直筆文記録書類が残されていることからもわかるように、実際の彼はきわめて高い学識を身につけた人物でもあったと言われている。文武両道に秀でた大力士としての礎はこの時期に培われたものに違いない。, 「文武遼道」のこの身などは雷電の爪の垢でも煎じて飲みたいところだったが、さすがに、雷電の生家まで引き返して土間にある土俵の中からその爪の垢を探し出すだけの執念は持ち合わせていなかった。それにまた、いまある建物は近年の復元だとのことであるが、いくらなんでも土俵の中の爪の垢までが復元されているはずがない。よしんばそこで爪の垢のレプリカが手に入ったとしても、そんなものを煎じて飲んだら贋雷電が誕生するのがいいところだろう。, 江戸相撲の浦風林右衛門の一行が地方巡業で上原家を訪れた際、相撲取りとしての天賦の才を見込まれた太郎吉は、十七歳になった天明四年(一七八四)に江戸に上り江戸相撲の門を叩くことになった。身長一九八センチ、体重一八八キロだったというから、二二六センチもの身長があったという釈迦ヶ岳は別格としても、当時としては目を見張るような巨漢力士であったのは間違いない。その四股は鋼鉄のごとく強靭そのものだったというが、それにもかかわらず実に柔和な相貌をしており、性格も温厚そのものだったらしい。, 天賦の資質とそれを磨く猛稽古の甲斐あってめきめきと頭角を顕した彼は、その力量と学徳をかわれて二十一歳の時に出雲松江藩のお抱え力士となった。そして、その時から、松江藩にゆかりのある「雷電」という四股名を名乗るようになった。二年後の寛政二年(一七九〇)には関脇として初優勝、以降無類の強さを発揮して優勝を重ね、寛政七年(一七九五年)に大関昇進を果したのだった。それから実に十六年の長きにわたり大関の地位を守り続けた。, 雷電は通算二十一年にわたる力士生活において、江戸相撲で二八五番、京都・大阪相撲で二二八番、合計五一三番の取組み(勝敗の明確な分)を行なっているが、その間に負けたのは十九番のみで、その勝率は九割六分一厘という驚異的なものとなっている。このほかに、長時間取組んだまま勝敗のつかなかった引き分け、同体の場合のように勝敗の判定が明確につかなかった無勝負、勝負の裁定に横槍が入ってもめた挙げ句に勝敗をうやむやにしてしまう勝負預かりなどが合わせて三十二番ほどあったようだ。, 当時の力士は皆が各藩のお抱え力士であったために、各力士の取組みにはその力士を抱える藩の名誉がかかっていた。平和な時代における模擬戦争あるいは代理戦争さならがの、サッカー・ワールドカップの試合みたいなものである。そのために、衆人の目からすれば明かに雷電が勝ったと思われるケースでも勝負預かりになってしまうようなこともあったらしい。横綱小野川との一番などはその典型的な事例だったようである。, 雷電が大関になった頃には名横綱谷風梶之助はすでに亡く、横綱としては引退間近な小野川喜三郎がいるだけだった。その横綱小野川との上覧相撲の対戦で雷電は相手を投げ飛ばしたらしいのだが、藩同士の体面や小野川の名誉問題などもあって、結局、その一番は勝負預かりになってしまった。ところが、事実上息子が敗れたのを知った小野川の母親は、そのことを苦にして自害して果てた。そのことに心を痛めた雷電は、小野川の母親のための追善供養として梵鐘を造り、松江藩とも縁の深かった赤坂の報土寺に寄進したと伝えられている。, あまりに強烈で相手力士を必ずや負傷させてしまうというので、雷電は「張り手」、「突っ張り」、「かんぬき」の三手を禁じ手とされたと言われているが、それが事実であったかどうかはいまひとつ定かでないらしい。藩の体面ばかりでなく、相手力士の将来などもあったことゆえ、ひどく力量差があるような場合には特別にそんな対応が取らたのかもしれないが、もしそうだったとすれば雷電の勝率はそのぶんいっそう驚異的だと言わざるをえないだろう。, そんな無敵の雷電が横綱の位に就くことなく終ったのはいまだに謎であるという。横綱小野川の引退後は四十年間ほど横綱は不在だった。横綱の称号の認定と授与を司る肥後細川藩の吉田司家がさまざまな理由から当時容易には江戸に上るのが困難だったからとか、横綱という称号そのものがその頃はまだそれほどには重要視されていなかったからだとかいう説もある。また、雷電自身が横綱の称号を辞退したからだとか、雷電を抱える松江藩松平家と吉田司家を擁する肥後藩細川家とが不仲だったからだとかいう見方もあるが、ほんとうのところはよくわからないらしい。, 東京深川の富岡八幡宮に初代横綱明石志賀之助以下、代々の横綱の名を刻んだ「横綱力士碑」が立っているが、むろんその中に雷電の名前はない。ただ、そのかわりに、「無類力士雷電為右衛門」の碑が特別に設けられている。おそらく、それは雷電にまつわる特別な事情を配慮してのことだったのだろう。, 地元の関家には雷電の着衣類や足袋などが残されており、現代の大型力士が試しにそれを着用してみたビデオなども紹介されていたが、幾分だぶついた感じであった。足袋にいたってはまったくだぶだぶだったようで、横綱曙の足袋と長さを比べるとすこし短いくらいだが、横幅はずっと広く、在りし日の雷電の土俵上での並外れた踏ん張りの強さを物語っているようだった。指紋や掌紋までがはっきりと浮き出た雷電の手形の複製なるものも展示されていたが、おそろしく巨大で、こんな手で一発張られたら瞬時に昇天してしまうだろうなと思われた。, いまひとつ館内の展示資料で興味深かったのは、江戸時代の力士の想像以上の多忙さだった。「一年を十日で過ごす好い男」などという川柳などがあるが、現実にはそれほど生易しいものではなかったらしい。当時一場所は十日制だったが、江戸だけでも年二場所おこなわれることもあり、さらに京都や大阪での場所にも出向かねばならぬうえ、その他の地方への巡業などもあったから、事実上は年間を通じフルスケジュールで活動していたらしい。, 現代みたいに飛行機や車、電車などに乗るわけにもいかず、もっぱら巨体を揺すっての徒歩による旅だったのだろうから、容易なことではなかったに相違ない。また、一場所十日だったといっても、雨天には取組みが行なわれないのが決まりだったから、天候不順の折などは一場所終えるのに一ヶ月を要することもあったという。, 雷電が他界してから三十六年後の文久元年(一八六一)には佐久間象山の直筆文と揮毫になる雷電の顕彰碑が建立された。かつてその碑は名碑中の名碑と謳われていたらしいが、いつしかその碑の一部を欠き取り身に着けると立身出世したり勝負ごとに強くなったりするという俗信がはやり、表面が削り取られてついには碑文が読めない状態になってしまったのだという。そのため、明治二十八年に新しい碑が再建された。その碑文の写真やその解説文などもなども館内に展示されていたが、象山の献辞が文字通りの絶賛であることからすると、雷電という人物はこれまで想像していた以上に偉大な存在であったようだ。, 力士雷電展示館を出ると、眼前に浅間連峰ののびやかな影が浮かび上がった。幼少期の雷電は日々その雄大な浅間の山々を仰ぎながら育ったのだろう。雷電の心の広さと豊かさは、そしてその強靭無比な身体はそんな大自然の賜物ででもあったのだろうか……。, 南勢出版は「甑島再見紀行」と「自詠旅歌愚考絵葉書(短歌絵葉書)」とを自費出版するために、さらには、関東在住の郷里関係者の情報交換の場を提供するために便宜上設けた名目だけの出版社です。書店流通ルートも出版コードも有してはおりません。. 八百長を嫌ったという逸話も、彼の実直さを現した話といえよう。

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